オーストリア 基本情報

オーストリア基本情報

国名 オーストリア共和国
首都 ウィーン
人口 約840万人 (2011年10月現在)
面積 約8.4万平方キロメートル (ほぼ北海道と同じ)
公用語 ドイツ語
宗教 カトリック約78%、プロテスタント約5%
通貨 ユーロドル
主要産業 機械、金属加工、観光
略史 1270年ハプスブルグ家、ルドルフ公オーストリア王権確立
1918年第一次世界大戦敗北後、ハプスブルグ帝国崩壊、共和制開始
1938年~1945年ナチス・ドイツによる併合
1955年10月独立、永世中立宣言、国連加盟
1995年ヨーロッパ連合体加盟

大使館

在オーストリア日本国大使館

住所: Heisgasse 6, 1010 Wien
電話: (01) 531-92-0
ファクス: (01)531-932-05-90
URL: www.at.emb-japan.go.jp/jp/emb_kontakt.html

 
国名オーストリア“Österreich” は、ドイツ語で「東の国」という意味。
国土面積は北海道とほぼ同じ大きさで、オーストリアの地形は大きくアルプス山脈、パンノニア低地の一部、ウィーン盆地、ボヘミア高地に分けられる。
気候は大きく3つに大別され、東部は大陸的なパンノニア低地気候、アルプス地方は降水量が多く、夏が短く冬が長いアルプス型気候、その他の地域は中部ヨーロッパの過渡的な気候である。

鉄 道

ÖBB(オーストリア国鉄)が主要幹線を網羅している。
 

空 路

ウィーン、インスブルック、ザルツブルク、グラーツ、クラーゲンフルトの各都市に国際空港がある。日本からの直行便は、オーストリア航空のウィーン・東京間のみ。
 

文 化 - クラシック音楽

オーストリア人の音楽文化への態度は保守的と評されたのも、今は昔の話であり、傑出した作曲家が若手の世代からデビューすることも増えてきた。国が芸術家を支援する態度も充実しており、才能があればすぐ委嘱がくるとまで言われている。
オーストリアからは多くの作曲家・演奏家を輩出、ドイツ圏全体として圧倒的に世界一のクラシック音楽大国として知られ、オペラですら本場イメージの強いイタリアの4倍以上の上演数を誇っている。名門オーケストラ”ウィーンフィルハーモニー“や国立歌劇場、音楽学校を擁する首都ウィーンは「音楽の都」と呼ばれている。特にこの分野に大物作曲家をあまり輩出していない日本や英米においては強い権威を誇る。作曲家人気調査などでは上位ご三傑はドイツのベートーヴェン、ヨハン・セバスチャン・バッハにオーストリアのモーツァルトが加わるのが常であり十傑でもブルックナー、シューベルト、マーラーといったオーストリア出身者に、ドイツ出身のブラームスらが入る状況である。実際には18世紀半ばまではイタリアやフランスの方がどちらかといえば音楽先進国であり音楽大国ドイツ・オーストリアの歴史は18世紀後半にウィーン古典派の台頭とともに急速に形成されたものではあるが、現況として愛好されているクラシック音楽としてはやはりずば抜けた割合を占めていることは事実である。演奏家については、ナチスの迫害によってユダヤ系を中心に人材が流出してしまったことなどから急速に人材が乏しくなったが、最近は回復傾向にある。
 

歴 史

オーストリア系ハプスブルク家は、カール5世の弟フェルディナント1世に始まり1648年に三十年戦争終結とともに結ばれたヴェストファーレン条約によって弱体化した。しかし1683年にオスマン帝国の第二次ウィーン包囲撃退の後、ハプスブルク家は力を取り戻し、オスマン帝国を破りハンガリーを奪還する。スペイン継承戦争では、ハプスブルク家に支援を申し出たブランデンブルク選帝侯フリードリッヒ3世にプロイセンの王の称号を認めるなど、神聖ローマ皇帝としての権威を示す。
1740年、カール6世が男子を欠いたまま没したため、神聖ローマ皇帝位を喪失し、オーストリアは長女マリア・テレジアが相続したものの、それを不服とするプロイセンなど列強との間にオーストリア継承戦争が勃発した。オーストリアはシュレージェンを失うなど一時苦境に陥るが、イギリスの援助を受けて劣勢を挽回し、1748年アーヘンの和約によってオーストリア、ボヘミア、ハンガリーの相続を承認される。また、マリア・テレジアの夫であるフランツ・シュテンファンが1745年に帝位を奪還した。その後、大国化するプロイセン王国に対抗するためフランス王国と接近した。フランス王太子ルイ16世とマリーアントワネットの結婚もその一環である。しかしこの行為でドイツ諸侯の支持を失い、神聖ローマ皇帝としての権威を損なう結果となった。それでもオーストリアは大国としての地位を確保し、プロイセン、ロシアと共にポーランド分割に参加した。さらにマリア・テレジアとその息子ヨーゼフ2世は啓蒙主義を推し進めるなど、積極的に富国強兵に努めた。
1789年のフランス革命は、ハプスブルク家に衝撃を与えた。ルイ16世とマリーアントワネットの処刑はハプスブルク家に脅威を与え、プロイセンと共にフランスに出兵するがフランス革命政府軍に敗れるなど失態を演じ、さらにナポレオン・ボナバルトの台頭を許して、やがて全ヨーロッパがナポレオン戦争の災禍に呑み込まれて行く動乱の時代に突入する。
19世紀初頭に神聖ローマ帝国はフランス皇帝ナポレオン1世の攻勢に屈して完全に解体し、ハプスブルク家のフランツ2世は1806年に退位した。一方でフランツは、1804年にナポレオンがフランス皇帝として即位したのに先立って、オーストリア皇帝フランツ1世を称しており、以後ハプスブルク家はオーストリアの帝室として存続した。そして、ナポレオン1世追放後のヨーロッパにおいて、ウィーン体制護持の神聖同盟の一角として地位を保持し、ドイツ連邦内においても優位を保っていた。しかし、クルミア戦争でロシアと敵対して神聖同盟は事実上崩壊し、1859年にはサルディーニャ王国に敗北してロンバルディアを失い、1866年の普墺戦争で大敗を喫し、ドイツ連邦から追放され国際的地位を低下させた。
国内でも、多民族国家であることから諸民族が自治を求めて立ち上がり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がハンガリー人に対して妥協することで、帝国は1867年にオーストリア帝国とハンガリー王国とに二分して同じ君主を仰ぐオーストリア・ハンガリー帝国へ再編された。
それでも以後、民族問題は深刻を深めていく。1908年、ボスニア・ヘルツェゴビナ併合を行ったことから、それまでくすぶっていた大セルビア主義が高揚し、ロシアとの関係も悪化した。そして1914年、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻がボスニアの州都サラエヴォでセルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプに暗殺される事件がきっかけとなって、オーストリアのセルビアへの宣戦から第一次世界大戦が始まる。長引く戦争、ロシアのレーニン政府の戦線離脱などの要因が重なり、連合国側はハプスブルク帝国を解体しないという当初の方針を踏み越え、チェコスロヴァキアに独立を約束してしまう。帝国内の民族も続々と独立し、盟邦ハンガリーもオーストリアとの完全分立を宣言した。ハプスブルク家の最後の皇帝カール1世は亡命し、中欧に650年間君臨したハプスブルグ帝国は1918年に崩壊した。その後、ハプスブルク一族はオーストリア共和国への入国を禁止された。1921年にはカール1世がハンガリー王国に復帰しようとしたが、失敗した。
1961年に至って、カール1世の長男オットー元皇太子はオーストリア帝位継承権と旧帝室財産の請求権を放棄してオーストリア共和国に忠誠の宣誓を行い、オーストリアに入国を許された。ハプスブルク家はオットーがドイツ選出で、その息子カールがオーストリア選出で、それぞれ欧州議会議員を務め、もはや統一を一切視野に入れずに同民族国家としての親密な関係を保つEU時代の両国関係を象徴する存在となっている。ただしオットーはその存命中、ハンガリー王とボヘミア王を名乗り続けていた。
なお、単に“ハプスブルク家”と呼ばれることが圧倒的に多いが、マリア・テレジアの子の世代以降、現在に至るまで正式な家名はHaus Habsburg-Lothringenである。