ウズベキスタン 観光スポット

ウズベキスタン共和国

ウズベキスタン共和国の首都はタシケントで、、中央アジアに位置する。国名はウズベク人の自称民族名 O’zbek(オズベク)と、ペルシャ語で何々の国を意味するイスタンの合成語である。オズベクは、テュルク語で“自身が主君”を意味し、一説にはキプチャク・ハン国のウズベク・ハン(オズベク・ハン)の名に由来するともいわれている。シルクロードの中心地で“ユネスコ世界文化遺産”の宝庫として、 青の街サマルカンドや茶色の町ブハラ、ヒヴァ、シャフリサーブス、仏教文化のテルメズなどが世界的に有名。

お勧め観光スポット

タシケント
タシケントタシュケントはチルチク川の形作るタシュケント・オアシスの主邑として、またカザフ草原・天山山脈北麓の遊牧地帯とトランスオクシアナのオアシス定住農耕地帯を中継する商業都市として古代から繁栄した。
中国との国際交易ではソグド人が中国地域で用いた一字姓では、チャーチュ出身者は「石」姓を名乗った。750年には唐の将軍が石国に侵攻したためにチャーチュはイスラム帝国に支援を求めた。その後、イスラム王朝と北方の遊牧民の支配を経て次第に都市住民のイスラム化・テュルク化が進展した。
1865年に帝政ロシア軍が夜間攻撃で侵攻、防御が堅固で激しい戦闘となったが制圧に成功、ロシアはタシュケントを直轄領に組み入れ、1867年、トルキスタン監督府が設置され、ロシアの中央アジア支配の拠点となった。
ロシア革命が起こると、トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の首都となり、再び中央アジアをめぐるロシアと英国が衝突し、英国のスパイの暗躍する町となった。1924年にはウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入され、1930年、サマルカンドに代わって首都となった。
1966年大地震に見舞われ、78000棟の家屋が倒壊した。地震後、計画的な都市作りが行われたため非常にソ連的な町並みとなり、最盛期にはソ連で4番目の人口を誇る大都市に成長した。独立後も大きなロシア人社会を抱えているが、町並みからロシア色は消えつつあり、イスラム原理主義に移行しつつある。
サマルカンド
グリアミール

サマルカンドは中央アジア、ウズベキスタンの古都。ステップ気候から地中海性気候へ移行部特有の抜けるような青空とモスクの色から「青の都」と呼ばれている。

旧市街、新市街、アフラーシャブの丘に分けられ、旧市街にはタジク系民族が多く住んでいる。

紀元前4世紀から注目され、サマルカンドという名前になる前はマラカンダという街で

ウズベキスタンの英雄アミール・ティムールによって、荘厳で美しく、中心的都市のサマルカンドに繁栄した。

ソグド人の町としていくつもの王朝の支配を受けながらも数世紀にわたって繁栄を続けてきたが、十字軍戦争の影響を受けてシリア経由路が閉鎖された結果、インドから黒海に至る交通路を占めたホラズム・シャー朝の首都として繁栄していたサマルカンドは1220年、モンゴルによって徹底的に破壊され、人口の3/4が殺されたという。その当時の旧サマルカンドは、ラフマト川の南、アフラースィアーブないしアフラーシャブの丘と呼ばれ、現在の市街地の北側にある。

後にティムール朝の王族たちの廟となったシャーヒ・ズィンダ廟はこのアフラーシャブの丘の東南遇に位置する。14世紀末から15世紀にはティムール帝国の首都として繁栄。市街地の内部にはティムールの墓廟であるグーリ・アミールやビビ・ハヌム・モスクなどが、アフラーシャブにはシャーヒ・ズインダ廟群が築かれ、郊外にはティムール朝の王族やアミール、廷臣らが大小さまざまな庭園や牧場、宿営地などを設けられた。ティムールの子、ウルグ・ベクの時代に天文台が築かれ、その当時の建物を含めて文化交差点として2001年にユネスコの世界文化遺産に登録された。

18世紀中頃からはウズベク諸政権内部の対立や周辺の諸部族の抗争、さらにイランからアフシャール朝のナーデル・シャーの侵攻を受けるなどしたため荒廃が激しくなった。19世紀にはブハラ・アミール国の発展によって復興されたが、アミール・ナスルッラーが没してブハラからの支配が弱まると、1868年にはロシア軍に占領され、ロシア領トルキスタンに編入された。サマルカンドはもともとブハラと同様イラン系である(ペルシア語を話す人たち)タジク人の多い都市であったが、ソビエト連邦時代の1924年、民族的境界画定によりウズベク・ソビエト社会主義共和国に区分され、1930年までその首都であった。

ブハラ
ブハラ歴史地区ブハラはザラフシャン川下流域に古代より栄えたオアシス都市で、1993年には、旧市街地が“ブハラ歴史地区”としてユネスコの世界文化遺産に登録された。都市名は、イスラム時代以降、アミール国期までこの地域の伝統的な書写言語であった近代ペルシャ語・チャガタイ語でプハーラとは元来サンスクリット語(“僧院”の意)に由来すると言われている。
中央アジアの乾燥地帯の中に位置しながら水資源に恵まれたオアシスに位置するブハラに人々が集落を建築し始めたのはきわめて古く、考古学上の発見から紀元前5世紀には城壁を持つ要塞都市が成立していたことが明らかになっている。しかし8世紀初頭にはこの地方にイスラム帝国の勢力がおよぼし、ブハラは709年にウマイヤ朝のホラーサーン総督によって征服された。これ以後ブハラはイスラム教を奉ずる勢力の支配下に置かれ、次第にイスラム化が進む。
また文化的には、サーマーン朝の君主の保護のもと、イスラムによるサーマーン朝の征服以来衰退していたペルシァ語による文化活動が興隆し、アラビア語の語彙を取り入れアラビア文字で表記するようになった。また君主の保護によってさまざまな施設が建設され、中でも第2代君主イスマイル・サマーニを葬ったイスマイル・サマーニ廟は現在までも残されており貴重な文化遺産になっている。
19世紀後半、ブハラは南下政策を推進するロシア帝国によって征服され、ブハラ・アミール国はロシアの保護国としてその植民地に組み込まれた。ロシア人たちはムスリムたちが住む旧市街を避け、その隣接地に新ブハラ(カガン)と呼ばれる近代都市を建設したため、ブハラは本来の都市構造と景観を維持できた。また、新ブハラを起点としてロシアの各地とブハラを結ぶ鉄道の敷設が進められ、ブハラはロシア帝国と緊密に結び付けられた。カガン駅は現在もブハラの鉄道の玄関口になっている。
1991年ソビエト連邦が崩壊しウズベキスタン共和国が独立すると、ブハラは新しいウズベク独立国家の優れた文化遺産として再評価されるようになった。1993年のユネスコ世界文化遺産認定を経て、観光都市としてブハラの再開発が進んでいる。一方ソビエトの崩壊によってタジキスタンとの間の境界は永続的な独立主権国家間の国境となり、ブハラでは多くのタジク語を話す住民、タジク人住民が存在するという矛盾が固定化された。現在も、タジク人住民の中には、ウズベキスタンよりもむしろタジキスタン共和国への共感を抱く者もいる。
ヒヴァ
ヒヴァヒヴァは、ホラズムとヒヴァ・ハン国の首都であり、現在では、ウズベキスタンのホラズム州にある。ヒヴァにあるイチャン・カラは、1991年にウズベキスタン国内で、初めて、ユネスコ世界遺産に登録された。
ヒヴァは、2つの町に分かれる。城壁の外側は、いわゆるディチャン・カラと呼ばれる地区で、かつては11の門が街を守っていた地区。城壁の内側は、世界遺産にも登録されているイチャン・カラ地区であり、10世紀には建設されたといわれている煉瓦の城壁に守られている。現在の城壁は、17世紀にさかのぼることができ、その高さは10メートルに及ぶ。
イチャン・カラ地区は、18世紀から19世紀にかけて建設された50以上の歴史的建造物と250以上の古い民家が存在する。たとえば、イチャン・カラに残る金曜モスクは、10世紀に建設されたと伝えられ、1788年から1789年にかけて再建された。