ウズベキスタン旅行:おススメ スポット情報

サクラツアーズ アナトリ’S  レコメンド おすすめスポット

タシケント
エルミタージュ美術館(冬の宮殿)タシュケントの古名をチャーチュ、チャーチュカンドとも言う、はチルチク川の形作るタシュケント・オアシスの主邑として、またカザフ草原・天山山脈北麓の遊牧地帯とトランスオクシアナのオアシス定住農耕地帯を中継する商業都市として古代から繁栄した。
中国との国際交易ではソグド人が中国地域で用いた一字姓では、チャーチュ出身者は「石」姓を名乗った。750年には唐の将軍が石国に侵攻したためにチャーチュはイスラム帝国に支援を求めた。その後、イスラム王朝と北方の遊牧民の支配を経て次第に都市住民のイスラム化・テュルク化が進展した。
1865年に帝政ロシア軍が夜間攻撃で侵攻、防御が堅固で激しい戦闘となったが制圧に成功、ロシアはタシュケントを直轄領に組み入れ、1867年、トルキスタン監督府が設置され、ロシアの中央アジア支配の拠点となった。
ロシア革命が起こると、トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の首都となり、再び中央アジアをめぐるロシアと英国が衝突し、英国のスパイの暗躍する町となった。1924年にはウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入され、1930年、サマルカンドに代わって首都となった。
1966年大地震に見舞われ、78000棟の家屋が倒壊した。地震後、計画的な都市作りが行われたため非常にソ連的な町並みとなり、最盛期にはソ連で4番目の人口を誇る大都市に成長した。独立後も大きなロシア人社会を抱えているが、町並みからロシア色は消えつつあり、イスラム原理主義に移行しつつある。
サマルカンド
サマルカンドサマルカンドは中央アジア、ウズベキスタンの古都。ステップ気候から地中海性気候へ移行部特有の抜けるような青空とモスクの色から「青の都」と呼ばれている。
旧市街、新市街、アフラーシャブの丘に分けられ、旧市街にはタジク系民族が多く住んでいる。
紀元前4世紀から注目され、サマルカンドという名前になる前はマラカンダという街でウズベキスタンの英雄アミール・ティムールによって、荘厳で美しく、中心的都市のサマルカンドに繁栄した。
ソグド人の町としていくつもの王朝の支配を受けながらも数世紀にわたって繁栄を続けてきたが、十字軍戦争の影響を受けてシリア経由路が閉鎖された結果、インドから黒海に至る交通路を占めたホラズム・シャー朝の首都として繁栄していたサマルカンドは1220年、モンゴルによって徹底的に破壊され、人口の3/4が殺されたという。その当時の旧サマルカンドは、ラフマト川の南、アフラースィアーブないしアフラーシャブの丘と呼ばれ、現在の市街地の北側にある。
後にティムール朝の王族たちの廟となったシャーヒ・ズィンダ廟はこのアフラーシャブの丘の東南遇に位置する。
14世紀末から15世紀にはティムール帝国の首都として繁栄。市街地の内部にはティムールの墓廟であるグーリ・アミールやビビ・ハヌム・モスクなどが、アフラーシャブにはシャーヒ・ズインダ廟群が築かれ、郊外にはティムール朝の王族やアミール、廷臣らが大小さまざまな庭園や牧場、宿営地などを設けられた。ティムールの子、ウルグ・ベクの時代に天文台が築かれ、その当時の建物を含めて文化交差点として2001年にユネスコの世界文化遺産に登録された。
ティムール朝後期は諸王家がサマルカンドを巡って争奪を繰り返すようになり、後のムガル朝の始祖となったバーブルも故地のフェルガナから度々自ら遠征してこの争奪戦に加わり幾度か領有している。その後、1500年にシャイバーニー朝のムハンマド・シャイバーニー・ハンによるウズベク勢力に征服され、ティムール朝も滅ぼされた。その後はジャーン朝などテュルク系のウズベク人の国家ブハラ・ハン国に属し、首都の地位はブハラに奪われたが17世紀にはウルグ・ベクのマドラサと対になるシールダール・マドラサが追加されて現在のレギスタン広場が形成されるなど、中央アジアの主要都市のひとつとして機能した。
18世紀中頃からはウズベク諸政権内部の対立や周辺の諸部族の抗争、さらにイランからアフシャール朝のナーデル・シャーの侵攻を受けるなどしたため荒廃が激しくなった。19世紀にはブハラ・アミール国の発展によって復興されたが、アミール・ナスルッラーが没してブハラからの支配が弱まると、1868年にはロシア軍に占領され、ロシア領トルキスタンに編入された。サマルカンドはもともとブハラと同様イラン系である(ペルシア語を話す人たち)タジク人の多い都市であったが、ソビエト連邦時代の1924年、民族的境界画定によりウズベク・ソビエト社会主義共和国に区分され、1930年までその首都であった。
ブハラ
ブハラブハラはザラフシャン川下流域に古代より栄えたオアシス都市で、1993年には、旧市街地が“ブハラ歴史地区”としてユネスコの世界文化遺産に登録された。都市名は、イスラム時代以降、アミール国期までこの地域の伝統的な書写言語であった近代ペルシャ語・チャガタイ語でブハーラーとは元来サンスクリット語(“僧院”の意)に由来すると考えられている。
イスラム時代以降、特にサーマーン朝の首都となってからもイラン・中央アジアにおける最も重要な都市のひとつであった。また近代20世紀の初頭までブハラ・アミール国(ブハラ・ハン国)の首都が置かれ、西トルキスタンにおける政治・文化の中心都市でもあった。特にサーマーン朝にはじまる近世ペルシア語文学の発信源としてこの都市が残した足跡は大きい。また、シャイバーニー朝やジャーン朝においてはブハラの宮廷でペルシア語に加え、チャガタイ語、文芸運動を隆盛させその中心都市としても発展した。このような歴史背景から、現在は住民の大多数が民族籍上ウズベク人とされているものの、住民の間ではペルシア語系のタジク語が広く話され、タジク人としての独自性を有する者も数多く存在する複雑な民族構成をもつ。
中央アジアの乾燥地帯の中に位置しながら水資源に恵まれたオアシスに位置するブハラに人々が集落を建築し始めたのはきわめて古く、考古学上の発見から紀元前5世紀には城壁を持つ要塞都市が成立していたことが明らかになっている。しかし8世紀初頭にはこの地方にイスラム帝国の勢力がおよぼし、ブハラは709年にウマイヤ朝のホラーサーン総督によって征服された。これ以後ブハラはイスラム教を奉ずる勢力の支配下に置かれ、次第にイスラム化が進む。
9世紀後半、土着のイラン系貴族が自立してサーマーン朝が成立し、ブハラは10世紀の末まで続いた王朝の首都となった。サーマーン朝の時代には東方の草原地帯からイスラム世界に向かって送り込まれるマムルーク(奴隷軍人)の交易が盛んに行われたことにより、マムルーク交易と結びついた商業都市として発展を遂げた。サーマーン朝時代に市域は大幅に拡張され、要塞と長大な市壁に囲まれた市街地、およびその周囲に発達した郊外地域からなる大都市となり、ブハラはサマルカンドにかわって中心都市に成長した。
また文化的には、サーマーン朝の君主の保護のもと、イスラムによるサーマーン朝の征服以来衰退していたペルシァ語による文化活動が興隆し、アラビア語の語彙を取り入れアラビア文字で表記するようになった。また君主の保護によってさまざまな施設が建設され、中でも第2代君主イスマイル・サマーニを葬ったイスマイル・サマーニ廟は現在までも残されており貴重な文化遺産になっている。
13世紀の前半にはモンゴルの征服を受け、市街が破壊されていったんは荒廃したが、その後モンゴル帝国支配下で徐々に人口が回復し、同世紀の後半までに都市は復興したが、15世紀のティムール朝まで政治的な中心はサマルカンドに奪われたこともあり、征服以前の繁栄には及ばなかった。16世紀後半に至り、ウズベク人のシャイバーン朝がブハラを実質上の首都と定めるとともに、ブハラは再び拡大に転じた。アブドゥッラーフ2世はブハラの再開発を推進し、王族、貴族によってモスク、マドラサ、公衆浴場、商店街が建設された。シャイバーン朝以来、アストラハン朝、マンギト朝とこの地方を支配した歴代の王朝はブハラを首都としたためこの政権はブハラ・ハン国(ブハラ・アミール国)と呼ばれている。ブハラ・ハン国の首都となったブハラは中央アジアにおけるイスラム教学の中心地としても重要な役割を果たし、「ブハーラーイ・シャリーフ(聖なるブハラ)」と呼ばれるようになった。そのためブハラは各地から多くのムスリムが巡礼者や修学のために訪れる宗教都市の性格も帯びた。
19世紀後半、ブハラは南下政策を推進するロシア帝国によって征服され、ブハラ・アミール国はロシアの保護国としてその植民地に組み込まれた。ロシア人たちはムスリムたちが住む旧市街を避け、その隣接地に新ブハラ(カガン)と呼ばれる近代都市を建設したため、ブハラは本来の都市構造と景観を維持できた。また、新ブハラを起点としてロシアの各地とブハラを結ぶ鉄道の敷設が進められ、ブハラはロシア帝国と緊密に結び付けられた。カガン駅は現在もブハラの鉄道の玄関口になっている。
ロシアの支配下に入っても、旧市街に住むアミール(君主)をはじめとする支配者たちは一定の権限を残されて温存され、またブハラ人社会の指導的な階層は伝統的なイスラム教育を受けた宗教指導者たちが占めていた。20世紀初頭になると、ロシア帝国内のムスリムの間で起こっていた教育の西洋化改革を訴える啓蒙活動の影響がヴォルガ・タタール人の手を経てブハラにまで及び、青年ブハラ人と呼ばれる若い知識人たちの活動が起こった。1910年代に入ると青年ブハラ人の運動は急進化し、アミール専制を批判し、国内改革を盛んに訴えた。
1917年ロシア革命の影響はブハラにも及び、1920年に赤軍の軍事介入でブハラ革命が成功、ブハラ・アミール国が滅んでブハラ人民ソビエト共和国が成立した。しかし旧支配層から国外の盆汎トルコ主義者まで巻き込んだ革命勢力に対する反抗や、ロシア共産党のソビエト政権による介入・粛清によって共和国の指導層は急速に瓦解した。最終的に1924年、ブハラ人民ソビエト共和国は解体され、民族の分布を基準とする境界線による新しい共和国が編成されることになった。
民族的境界策定にあたって旧来ブハラ・アミール国の領域に住んでいた住民は、テュルク語系のウズベク語を母語とする人々はウズベク人、ペルシア語系のタジク語を母語とする人々はタジク人とされたが、ブハラ市民の大多数はウズベク人と認定され、ブハラはウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入された。しかし歴史的に中央アジアにおけるペルシャ語文学の中心都市であったブハラではタジク語が日常的に話される割合も大きく、民族境界画定の恣意性が指摘されることもある。
1991年ソビエト連邦が崩壊しウズベキスタン共和国が独立すると、ブハラは新しいウズベク独立国家の優れた文化遺産として再評価されるようになった。1993年のユネスコ世界文化遺産認定を経て、観光都市としてブハラの再開発が進んでいる。一方ソビエトの崩壊によってタジキスタンとの間の境界は永続的な独立主権国家間の国境となり、ブハラでは多くのタジク語を話す住民、タジク人住民が存在するという矛盾が固定化された。現在も、タジク人住民の中には、ウズベキスタンよりもむしろタジキスタン共和国への共感を抱く者もいる。
1993年 ブハラ歴史地区
2001年 サマルカンド-文化交差路
エカテリーナ宮殿
エカテリーナ宮殿は、サンクトペテルブルグ中心部から南東25kmの郊外の避暑地ツァールスコエ・セローに存在するロシア帝国時代のロココ建築の宮殿。

建設は1752年5月から4年の歳月をついやし、1756年7月30日に全長325メートルの現行規模の宮殿が完成した。

とりわけ“琥珀の間”が有名である。琥珀は、第二次世界大戦のレニングラード包囲戦中にドイツ軍に持ち去られたが、1979年から始まった復元作業により、2003年に完全に復元された。

1791年に日本人の漂流民大黒屋光太夫が帰国を願うため、エカテリーナ2世(在位:1762年 – 1796年)に謁見した場所としても知られる。

ピュートル大帝、夏の宮殿
サンクトペテルブルグから高速艇で約30分。船から降りるとすぐに入園料を払い、入ると公園の中心に多くの噴水が見える。 階段を登って上から見る公園は一見の価値あり。 庭園のあちこちに噴水があり見事ですが、大滝が一番です。

宮殿の内装はとても豪華で秘宝館も見応えがある。 宮殿から大滝やフィンランド湾まで眺める事が出来て、爽快な気分になる。

 

エルミタージュ美術館(冬の宮殿)タシュケントの古名をチャーチュ、チャーチュカンドとも言う、はチルチク川の形作るタシュケント・オアシスの主邑として、またカザフ草原・天山山脈北麓の遊牧地帯とトランスオクシアナのオアシス定住農耕地帯を中継する商業都市として古代から繁栄した。
中国との国際交易ではソグド人が中国地域で用いた一字姓では、チャーチュ出身者は「石」姓を名乗った。750年には唐の将軍が石国に侵攻したためにチャーチュはイスラム帝国に支援を求めた。その後、イスラム王朝と北方の遊牧民の支配を経て次第に都市住民のイスラム化・テュルク化が進展した。
1865年に帝政ロシア軍が夜間攻撃で侵攻、防御が堅固で激しい戦闘となったが制圧に成功、ロシアはタシュケントを直轄領に組み入れ、1867年、トルキスタン監督府が設置され、ロシアの中央アジア支配の拠点となった。
ロシア革命が起こると、トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の首都となり、再び中央アジアをめぐるロシアと英国が衝突し、英国のスパイの暗躍する町となった。1924年にはウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入され、1930年、サマルカンドに代わって首都となった。
1966年大地震に見舞われ、78000棟の家屋が倒壊した。地震後、計画的な都市作りが行われたため非常にソ連的な町並みとなり、最盛期にはソ連で4番目の人口を誇る大都市に成長した。独立後も大きなロシア人社会を抱えているが、町並みからロシア色は消えつつあり、イスラム原理主義に移行しつつある。
サマルカンド
サマルカンドサマルカンドは中央アジア、ウズベキスタンの古都。ステップ気候から地中海性気候へ移行部特有の抜けるような青空とモスクの色から「青の都」と呼ばれている。
旧市街、新市街、アフラーシャブの丘に分けられ、旧市街にはタジク系民族が多く住んでいる。
紀元前4世紀から注目され、サマルカンドという名前になる前はマラカンダという街でウズベキスタンの英雄アミール・ティムールによって、荘厳で美しく、中心的都市のサマルカンドに繁栄した。
ソグド人の町としていくつもの王朝の支配を受けながらも数世紀にわたって繁栄を続けてきたが、十字軍戦争の影響を受けてシリア経由路が閉鎖された結果、インドから黒海に至る交通路を占めたホラズム・シャー朝の首都として繁栄していたサマルカンドは1220年、モンゴルによって徹底的に破壊され、人口の3/4が殺されたという。その当時の旧サマルカンドは、ラフマト川の南、アフラースィアーブないしアフラーシャブの丘と呼ばれ、現在の市街地の北側にある。
後にティムール朝の王族たちの廟となったシャーヒ・ズィンダ廟はこのアフラーシャブの丘の東南遇に位置する。
14世紀末から15世紀にはティムール帝国の首都として繁栄。市街地の内部にはティムールの墓廟であるグーリ・アミールやビビ・ハヌム・モスクなどが、アフラーシャブにはシャーヒ・ズインダ廟群が築かれ、郊外にはティムール朝の王族やアミール、廷臣らが大小さまざまな庭園や牧場、宿営地などを設けられた。ティムールの子、ウルグ・ベクの時代に天文台が築かれ、その当時の建物を含めて文化交差点として2001年にユネスコの世界文化遺産に登録された。
ティムール朝後期は諸王家がサマルカンドを巡って争奪を繰り返すようになり、後のムガル朝の始祖となったバーブルも故地のフェルガナから度々自ら遠征してこの争奪戦に加わり幾度か領有している。その後、1500年にシャイバーニー朝のムハンマド・シャイバーニー・ハンによるウズベク勢力に征服され、ティムール朝も滅ぼされた。その後はジャーン朝などテュルク系のウズベク人の国家ブハラ・ハン国に属し、首都の地位はブハラに奪われたが17世紀にはウルグ・ベクのマドラサと対になるシールダール・マドラサが追加されて現在のレギスタン広場が形成されるなど、中央アジアの主要都市のひとつとして機能した。
18世紀中頃からはウズベク諸政権内部の対立や周辺の諸部族の抗争、さらにイランからアフシャール朝のナーデル・シャーの侵攻を受けるなどしたため荒廃が激しくなった。19世紀にはブハラ・アミール国の発展によって復興されたが、アミール・ナスルッラーが没してブハラからの支配が弱まると、1868年にはロシア軍に占領され、ロシア領トルキスタンに編入された。サマルカンドはもともとブハラと同様イラン系である(ペルシア語を話す人たち)タジク人の多い都市であったが、ソビエト連邦時代の1924年、民族的境界画定によりウズベク・ソビエト社会主義共和国に区分され、1930年までその首都であった。
ブハラ
ブハラブハラはザラフシャン川下流域に古代より栄えたオアシス都市で、1993年には、旧市街地が“ブハラ歴史地区”としてユネスコの世界文化遺産に登録された。都市名は、イスラム時代以降、アミール国期までこの地域の伝統的な書写言語であった近代ペルシャ語・チャガタイ語でブハーラーとは元来サンスクリット語(“僧院”の意)に由来すると考えられている。
イスラム時代以降、特にサーマーン朝の首都となってからもイラン・中央アジアにおける最も重要な都市のひとつであった。また近代20世紀の初頭までブハラ・アミール国(ブハラ・ハン国)の首都が置かれ、西トルキスタンにおける政治・文化の中心都市でもあった。特にサーマーン朝にはじまる近世ペルシア語文学の発信源としてこの都市が残した足跡は大きい。また、シャイバーニー朝やジャーン朝においてはブハラの宮廷でペルシア語に加え、チャガタイ語、文芸運動を隆盛させその中心都市としても発展した。このような歴史背景から、現在は住民の大多数が民族籍上ウズベク人とされているものの、住民の間ではペルシア語系のタジク語が広く話され、タジク人としての独自性を有する者も数多く存在する複雑な民族構成をもつ。
中央アジアの乾燥地帯の中に位置しながら水資源に恵まれたオアシスに位置するブハラに人々が集落を建築し始めたのはきわめて古く、考古学上の発見から紀元前5世紀には城壁を持つ要塞都市が成立していたことが明らかになっている。しかし8世紀初頭にはこの地方にイスラム帝国の勢力がおよぼし、ブハラは709年にウマイヤ朝のホラーサーン総督によって征服された。これ以後ブハラはイスラム教を奉ずる勢力の支配下に置かれ、次第にイスラム化が進む。
9世紀後半、土着のイラン系貴族が自立してサーマーン朝が成立し、ブハラは10世紀の末まで続いた王朝の首都となった。サーマーン朝の時代には東方の草原地帯からイスラム世界に向かって送り込まれるマムルーク(奴隷軍人)の交易が盛んに行われたことにより、マムルーク交易と結びついた商業都市として発展を遂げた。サーマーン朝時代に市域は大幅に拡張され、要塞と長大な市壁に囲まれた市街地、およびその周囲に発達した郊外地域からなる大都市となり、ブハラはサマルカンドにかわって中心都市に成長した。
また文化的には、サーマーン朝の君主の保護のもと、イスラムによるサーマーン朝の征服以来衰退していたペルシァ語による文化活動が興隆し、アラビア語の語彙を取り入れアラビア文字で表記するようになった。また君主の保護によってさまざまな施設が建設され、中でも第2代君主イスマイル・サマーニを葬ったイスマイル・サマーニ廟は現在までも残されており貴重な文化遺産になっている。
13世紀の前半にはモンゴルの征服を受け、市街が破壊されていったんは荒廃したが、その後モンゴル帝国支配下で徐々に人口が回復し、同世紀の後半までに都市は復興したが、15世紀のティムール朝まで政治的な中心はサマルカンドに奪われたこともあり、征服以前の繁栄には及ばなかった。16世紀後半に至り、ウズベク人のシャイバーン朝がブハラを実質上の首都と定めるとともに、ブハラは再び拡大に転じた。アブドゥッラーフ2世はブハラの再開発を推進し、王族、貴族によってモスク、マドラサ、公衆浴場、商店街が建設された。シャイバーン朝以来、アストラハン朝、マンギト朝とこの地方を支配した歴代の王朝はブハラを首都としたためこの政権はブハラ・ハン国(ブハラ・アミール国)と呼ばれている。ブハラ・ハン国の首都となったブハラは中央アジアにおけるイスラム教学の中心地としても重要な役割を果たし、「ブハーラーイ・シャリーフ(聖なるブハラ)」と呼ばれるようになった。そのためブハラは各地から多くのムスリムが巡礼者や修学のために訪れる宗教都市の性格も帯びた。
19世紀後半、ブハラは南下政策を推進するロシア帝国によって征服され、ブハラ・アミール国はロシアの保護国としてその植民地に組み込まれた。ロシア人たちはムスリムたちが住む旧市街を避け、その隣接地に新ブハラ(カガン)と呼ばれる近代都市を建設したため、ブハラは本来の都市構造と景観を維持できた。また、新ブハラを起点としてロシアの各地とブハラを結ぶ鉄道の敷設が進められ、ブハラはロシア帝国と緊密に結び付けられた。カガン駅は現在もブハラの鉄道の玄関口になっている。
ロシアの支配下に入っても、旧市街に住むアミール(君主)をはじめとする支配者たちは一定の権限を残されて温存され、またブハラ人社会の指導的な階層は伝統的なイスラム教育を受けた宗教指導者たちが占めていた。20世紀初頭になると、ロシア帝国内のムスリムの間で起こっていた教育の西洋化改革を訴える啓蒙活動の影響がヴォルガ・タタール人の手を経てブハラにまで及び、青年ブハラ人と呼ばれる若い知識人たちの活動が起こった。1910年代に入ると青年ブハラ人の運動は急進化し、アミール専制を批判し、国内改革を盛んに訴えた。
1917年ロシア革命の影響はブハラにも及び、1920年に赤軍の軍事介入でブハラ革命が成功、ブハラ・アミール国が滅んでブハラ人民ソビエト共和国が成立した。しかし旧支配層から国外の盆汎トルコ主義者まで巻き込んだ革命勢力に対する反抗や、ロシア共産党のソビエト政権による介入・粛清によって共和国の指導層は急速に瓦解した。最終的に1924年、ブハラ人民ソビエト共和国は解体され、民族の分布を基準とする境界線による新しい共和国が編成されることになった。
民族的境界策定にあたって旧来ブハラ・アミール国の領域に住んでいた住民は、テュルク語系のウズベク語を母語とする人々はウズベク人、ペルシア語系のタジク語を母語とする人々はタジク人とされたが、ブハラ市民の大多数はウズベク人と認定され、ブハラはウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入された。しかし歴史的に中央アジアにおけるペルシャ語文学の中心都市であったブハラではタジク語が日常的に話される割合も大きく、民族境界画定の恣意性が指摘されることもある。
1991年ソビエト連邦が崩壊しウズベキスタン共和国が独立すると、ブハラは新しいウズベク独立国家の優れた文化遺産として再評価されるようになった。1993年のユネスコ世界文化遺産認定を経て、観光都市としてブハラの再開発が進んでいる。一方ソビエトの崩壊によってタジキスタンとの間の境界は永続的な独立主権国家間の国境となり、ブハラでは多くのタジク語を話す住民、タジク人住民が存在するという矛盾が固定化された。現在も、タジク人住民の中には、ウズベキスタンよりもむしろタジキスタン共和国への共感を抱く者もいる。
聖イサァク大聖堂
聖イサァク大聖堂聖イサァク大聖堂は中心にあるロシア正教の大聖堂。ドームは全高101.5メートルの偉容を誇る。聖イサァク大聖堂の名称は、ピョートル大帝の守護聖人、ダルマチアの聖イサァクに由来する。
血の上の救世主教会
血の上の救世主教会血の上の救世主教会は、サンクトペテルブルグにあるロシア正教の聖堂である。公式名は、ハリストス復活大聖堂。このほか、血の上の教会(Church on Spilt Blood)の名称でも知られる。この名称は、1881年3月13日のロシア皇帝アレクサンドル2世暗殺によるもので、教会が建つ場所は、皇帝遭難の地である。
エカテリーナ宮殿
エカテリーナ宮殿は、サンクトペテルブルグ中心部から南東25kmの郊外の避暑地ツァールスコエ・セローに存在するロシア帝国時代のロココ建築の宮殿。

建設は1752年5月から4年の歳月をついやし、1756年7月30日に全長325メートルの現行規模の宮殿が完成した。

とりわけ“琥珀の間”が有名である。琥珀は、第二次世界大戦のレニングラード包囲戦中にドイツ軍に持ち去られたが、1979年から始まった復元作業により、2003年に完全に復元された。

1791年に日本人の漂流民大黒屋光太夫が帰国を願うため、エカテリーナ2世(在位:1762年 – 1796年)に謁見した場所としても知られる。

ピュートル大帝、夏の宮殿
サンクトペテルブルグから高速艇で約30分。船から降りるとすぐに入園料を払い、入ると公園の中心に多くの噴水が見える。 階段を登って上から見る公園は一見の価値あり。 庭園のあちこちに噴水があり見事ですが、大滝が一番です。

宮殿の内装はとても豪華で秘宝館も見応えがある。 宮殿から大滝やフィンランド湾まで眺める事が出来て、爽快な気分になる。

クレムリン
クレムリンとは、ロシア連邦の首都、モスクワ市の中心を流れるモスクワ沿いにある旧ロシア帝国の宮殿。現在もロシア連邦の大統領府や大統領官邸が置かれている。正面には赤の広場がある。ロシア語でクレムリとは“城塞”の意。中世ロシアにおいて、多くの都市は中心部にクレムリンを備えていた。モスクワの他、ノヴゴロド、ニジニ・ノヴゴロド、カザン、アストラハンにあるものが有名である。しかしながら、日本において単にクレムリンと言った場合、モスクワにある宮殿を指すことが多い。モスクワのクレムリンはそれらのなかでも最も有名かつ壮大なものである。城壁の総延長2.25km。20の城門を備え、内部には様々な時代の様式による宮殿や大聖堂が林立している。
赤の広場
赤の広場は、首都モスクワの都心部にある広場で、元々ロシア語で“「美しい”」という意味もあり、広場の名前は本来「美しい広場」というものであった。広場は北西から南東に長く、南西側にはガガーリンやスターリンが眠る城壁とその中の大統領官邸、城壁に接しているレーニンの遺体が保存展示されている。北東側にはグム百化貨店、北西端には国立歴史博物館とヴァスクレセンスキー門、南東端には葱坊主の屋根の聖ワシリィー大聖堂と処刑場・布告台だったロブノエ・メストがある。
聖ワシリイ大聖堂
聖ワシリイ大聖堂は赤の広場に立つロシア正教の大聖堂。1551年から1560年にかけて、イヴァン4世が、カザン・ハーンを捕虜とし勝利したことを記念して建立した。ロシアの聖堂でもっとも美しい建物のひとつと言われている。1990年にユネスコの世界遺産に登録された。
ノヴォデヴィチ女子修道院
ノヴォデヴィチ女子修道院は正教会の修道院の中でも、有名な女子修道院の1つである。2004年にユネスコの世界遺産に登録された。この修道院の最も重要な建造物は、1524年から1525年にかけて建設されたスモレンスキクの生神女大聖堂である。6本の柱と5つのドーム屋根によって構成されている。ロシア建築に特有の中央の切妻屋根は、イヴァン4世の時代に建設された。
プーシキン美術館
ヨーロッパ最大の美術館であり、収蔵品の数は約10万点でエルミタージュ美術館に次ぐ世界第2位。
コローメンスコエ
コローメンスコエの名称は、モスクワ南東部コロムナ街道の起点であったことに由来する。1925年にコローメンスコエには野外文化財博物館が設置され、歴史的建築物が保護された。1994年コローメンスコエの主の昇天教会(ヴォズネセーニエ教会)は、ユネスコの世界遺産に登録された。